Google Map「地表の掻き傷」に関する展覧会や絵画作品などのアウトプットをご覧いただけます。
2022.01.28-02.02
展覧会「地表の掻き傷」
|東京藝術大学 卒業・修了作品展 大学院美術研究科修士課程

Exhibition "Scratches on the ground"
| Tokyo University of the Arts Graduation Works Exhibitions
   Faculty of Fine Arts Masters degrees



大学院の修了制作として「地表の掻き傷」という展覧会を行った。
自身がこれまで続けてきた「地表の掻き傷を集める行為」と当ポータルサイトの編集を踏まえて、何か考えたり作ることはできないかと考えた結果であった。このような地に足のつかない方法をリサーチと言い切って良いのかはわからないし、これは単に物を作るための下調べではなかったとも思っている。
このサイトは、GoogleMapの「地表の掻き傷」というマイマップへの玄関口である。載せているテキストログも絵画のようなアウトプットも周縁でしかない。ほかでもない実物と経験はGoogleMap上にある。それはアメリカ モンタナ州にもないのかもしれない...。

展覧会のアーカイブをこのサイトに載せるにあたって、「アウトプット」の位置付けとして触れていけたらと思う。 各アウトプットに寄せる文章は、キャプションとはまたすこし違ったものにしたい。無形のマイマップの存在の中からどの要素に反応して、有形のものを生み、場所に降ろすのか...というような、思惑や手順について述べてみたい。

実地での展覧会があって、それをふりかえる意味でのアーカイブは自身のポートフォリオサイトにアップしようと思う。こちら
ここはあくまでGoogle Mapの閲覧のための玄関口である。Google Mapで地表の掻き傷を「実際に」見ることが中心であり、テキストを残すことや展覧会自体は付随するようなアウトプットの一つに他ならない。
そのため、この度のアウトプット(展覧会)に関して考えていたのは、これまで地表の掻き傷をまとめていたマイマップも、当サイトも、わざわざ実空間にインストールして再提示する必要はないかもしれないということだった。地表の掻き傷はマップ上に存在していて、それで既にその経験は完結する。この線の夥しさなどを「ある発見」としてそのまま提示することが、二度手間のように感じた。
デジタル地図の中にもう一つ、経験されるべき現実であるという自分なりの感触が、無かったことになってしまう気がした。


展覧会は主に3つの要素で構成されている。
1つは、3Dプリンター中心に構成されるインスタレーション「地表の掻き傷」であり、2つ目は絵画「地へのイリュージョン」そして、ビデオ「100年の機械(2022)」によって本展は構成されている。
※1 3Dプリンタの動作に使う図面。マイマップで集めた「地表の掻き傷」の凡例を大量に組み合わせて作った。この図面は映像中の3Dプリンターの動作と絵画にも適用されている。
地表の掻き傷 
Scratches on the ground

2022
3Dプリンター、シリコン、iPad によるプロジェクション装置
projection with  3D printer, silicon hand, iPad

3Dプリンターに取り付けられたシリコンの指がiPadに触れ、GoogleMapを開いた画面を動かしていく。そうして動かされ続けるiPadの画面をキャプチャし、壁面にプロジェクションしている。GoogleMapでは「地表の掻き傷」が密集するモンタナ州のエリアを表示させている。自身がGoogleMap上で「地表の掻き傷」と呼べる線を探し出すときには、ひたすら画面をたぐるしかなかった。途方もない手の動きと、地図の模様の部分を見続ける経験をこの装置では再現している。プロジェクターはGoogleMapの無味な地図の模様をただ映し出し、鑑賞者はよくわからない場所を見続ける。そして時々、画面は「地表の掻き傷」をとらえる。
GoogleMap画面上で、ズームイン、ズームアウトを行っても、最も拡大しない限り画質は一定に保たれる。このように画質を一定に保つ機能を活かすための、デバイスの画面キャプチャであった。GoogleMapの複製を避けること以上に、実地の展示において地図が上演されている、そんな状態を作れるのではないだろうかと考えた。
※1 こうした「地表の掻き傷を探す手つき」を反映するために、3Dプリンターにはこの図面を入力している。自身は地図上の「地表の掻き傷」という線を「ある形を象るためのものではなく、純粋な何らかの動作の痕跡である」と推測している。「地表の掻き傷を探す手つき」もまた、目的地の設定はなく地図をひたすら手繰るものである。「地表の掻き傷を生む行為」と「地図をたぐる行為」は、「ある形を象るためのものではなく、純粋な何らかの動作の痕跡である」という部分で重なるのではないか。そうして、ただ「地表の掻き傷」の線になぞらえた動きを3Dプリンターに出力させればいいのだという考えに至った。これで地図が知らない場所を映し出してくれるだろう。データの作成方法は以下のような手順で行った。「地表の掻き傷」の複数の凡例のうちから、Illustrator上で線描でトレースし、SVGデータに変換。3Dプリンターのスライスソフトに読み込ませるためのSTLデータに変換し厚みを数mmほどにする。この厚みは展覧会の会場時間によって変えている。最終的にできたgcodeのデータは、右図のような厚みを持った幾重にも重なる線のオブジェクトである。
実際の地表にある「地表の掻き傷」をよく観察すると、ドットが連なって線になっている部分や、線が途切れて破線状になっているものが見られる。指(3Dプリンター)がこの形状に倣って動作すれば、単純な線「ー」を出力する際、画面上ではスワイプとして認識され、画面が左右上下いずれかに動かされる。「・ー」となれば「タップ+スワイプ」となり、ズームインもしくはズームアウトとなるのではないかという予想で制作した。実際にはシリコンの素材の柔らかさや、指先部分に取り付けた導電性のパーツと画面の摩擦によってもたらされる要因で、予想していた正確な動きは再現できなかった。
地へのイリュージョン
 Illusion to the ground
2022 
キャンバスにアクリル 
Acrylic on canvas W1620×H3240mm

「地表の掻き傷」をどう風景画にできるだろうか?「地表の掻き傷」の特筆すべき性質とは、徹底して平面的な存在だということである。地表のテクスチャであるという点でも、そして「地表の掻き傷」を立体的な風景へと展開し難いという点でも。「地表の掻き傷」には座標の情報しか与えられていなかったからだ。
地図を見て、座標から立体的な風景を想像する手がかりは、地形図や標高図ではない。それだけでは自分は足りなかった。Google Mapの「スポット」に紐づいた、誰かが投稿した画像及び、他のサイトへのリンク、そしてGoogleストリートビューが必要だった。だから厳密に言えば「スポット」という記号から立ち上がるのは、「風景」ではなく、そこで得られるのはデータベースの一種の表象なのかもしれない。一体「風景」を想像するということは、どういうものだったのだろう。
そういう感慨の中で、マイマップを編集していたとき、「模様」の部分に興味を抱いた。この部分はよくよく考えると不思議な部分である、スポットとスポットの間を隙間なく埋めている。ここに無数の風景が含まれているはずなのに、それは単一的で、ただの色の混ざり合いにしか見えなくなる。特にモンタナ州の航空写真では、スポットが少なくそれが顕著になった。この「模様」は地形的な連続性のリアリティを担保しているのだろうか?その役割があるとしたら、Googleのデータベースに直接従事していないその「役割」はいかなる理由で要請されたものなのだろうか。「地表の掻き傷」は他でもなくこの「模様」に宿っている...。
「地へのイリュージョン」という題をつけたのは、遠近法の解体による「自由落下」、「俯瞰」の視点が「安定した地面の幻想」を我々に与える、というヒト・シュタイエルの言及に影響を受けたからだ。(”In Free Fall: A Thought Experiment on Vertical Perspective” ) 今日の空中写真のシミュレートされた地面は、実際には地平線が砕かれてしまった状況において、方向を定めるための幻想的なツールとなったのだ。かつて人工的に水平線を発明したように、空中からの視点は「地面」を発明しているという内容に、地図の「模様」の役割はこのような要請あってのものかもしれないと腑に落ちた。
ただ「地表の掻き傷」はその「地面」へのイリュージョンを否定するようなかたちで地図に立ち現れる。これが重要だと思った。明るい薄黄色で、何かの記号のような線をたたえている。それは衛星写真の立体的な描写を断ち切り、突如平面性をもたらしているようである。こうした性質を持つ「地表の掻き傷」は、地図にとって無用で過剰である。この領域は地図の法空間の中で流刑にされているのではないか。そうした予感を抱くことになった。(このことがビデオ「100年の機械」へとつながっていった。)
絵画「地へのイリュージョン」は、マイマップ「地表の掻き傷」の凡例1(地表の掻き傷を収集するスタートとなった場所)の標高図を元に凹凸が作られている。この凹凸は絵具の盛り上がりによってできているのではなく、下地の時点で盛り上げている。この凹凸に、エアブラシで塗装を行っている。エアブラシで吹き付けるイメージは、山間の平野の衛星写真だ。地の立体感を強調する吹き付け方にしつつも、その山間の平野というイメージははっきりと見えてこないよう抑制した。上記のような理由で、「模様」としての風景を強調したかった意図がある。「地表の掻き傷」は他の作品で用いた、幾つもの凡例を重ねて作った図面と同じものを扱った。画面の線の部分はマスキングして、全体への塗装後に剥がした部分である。
この絵は、地があたかも窓であるかのように振る舞う、奥行きを持ったイリュージョンにはならないだろう、なるべきではないだろうと感じた。この俯瞰の風景に地平線は存在していないからだ。地があたかも絵の具の塊を振る舞っているかのような状態を成したかった。そのものが表出しているのではなく、「もの」に「表面」が与えられているという二分の状態。それが、衛生写真が上部から安定した地面の幻想を描き出しているという状況に通じるのではないか。この絵では「もの」と「表面」のそんな関係を削るように、断ち切るように「地表の掻き傷」の図像を浮かび上がらせたかった。
100年の機械 
A centenary machine
2022 
video 8m47s
出演・撮影協力:角野理彩
技術協力:吉田晋之介
機材提供:油画技法材料研究室
テキスト引用元:フランツ・カフカ『流刑地で』(原田義人訳)

このビデオでは、フランツ・カフカ『流刑地で』のテキストを引用している。原作に登場する処刑機械を3Dプリンターに見立てていく前半部分。後半は、自身が3Dプリンターの中に寝そべり、背中に「地表の掻き傷」の模様が掻かれていくという処刑のシーンになっている。処刑シーンでは原作の登場人物である「将校」が処刑機械の構想を語るが、それは自身のテキストによるものである。
カフカの「流刑地にて」の中で、処刑とは、受刑者の体に犯した法の文を針で刻み入れていくというものだ。あるものが権力により、他者の表象を規定する。その規定は刺青により消えることはない。しかしこの映像においては、一見その暴力性は中和され、爪が肌を掻いていく行為が繰り広げられる。この掻き入れる行為によって、作者の肌にミミズ腫れが生じていく。そのミミズ腫れはある程度時間が立つと腫れが引いていく。自身が取り扱いたかったのは、「痛み」や「固定」ではなく、「痒み」と「変化する表象」であった。「地表の掻き傷」という現象の性質からしても、刺青のような固着して変化しない性質とは相反するからである。刺青に他者を要するのではなく、痒み-掻くという個人のなかで循環する身体的行為を目的とした。それはなぜか。
「100年の機械」は、「地表の掻き傷」の風景画を描くならば、自身もまた掻かれる対象であろうと考え制作したビデオだ。現代の地図から風景画をうむ身体像は、一層混濁した主客関係の中に見出せるだろう。そこには風景画を描く主体の二重性があるように思う。遠近法によって対象を描く時、その描く主体の位置は揺らがない、線の中心を成している。俯瞰から描く時はどうだろうか。衛星写真によって構成された地図を眺める時、自身の背後の遥か上空を人工衛星が飛んでいる。人工衛星の視線によって焼き尽くされた網膜的なものは、全て地図と化したのではないか。私の座標と、小さな肌という領域も含めて。衛星による地図が実現されている今、かつてないほど主体の視点は二重性の中にいる。その身体は絵を描くとき、目で見ると同時に肌=「地図の表面」で知覚している。
流刑地、それは地図の模様の部分に存在する「地表の掻き傷」のことだ。それは、地図という法に従事していない。風景へと展開されず、また、地面を発明する被膜を脅かす存在であるからだ。この模様は地図という法空間の中で流刑にされている、そうした思考が本制作へと向かわせたのだと今は思う。ビデオは、「我々が今いる場所、ここは流刑地です。」と述べる。俯瞰の絵画、プロジェクションされた衛星地図の模様、3Dプリンターに処刑される自身、表面的な存在へと還元される空間を作り出す意図がこの修了制作「地表の掻き傷」にはあった。そして、そのような空間を「流刑地」と指したのである。
展覧会協力
設営(五十音順):
角野理彩
龍村景一
津村侑希
油画技法材料研究室

機材提供:
油画技法材料研究室
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